2025.08.29その他New


『幸いな人』月刊ディボーション誌 10月号
当社、岩井俊憲の記事「劣等感コンプレックスからの解放」が8ページから12ページにかけて掲載されました。
劣等コンプレックスからの解放
アドラー心理学の特徴
アドラー心理学の特徴を一言で表すなら、原因を探らないということです。原因を探ることは、未来のための解決にはなりません。アドラー心理学は原因を深掘りするのではなく、それを今後にどう生かすかを考えます。非常に未来思考であり、「あなたは犠牲者ではない。被害者ではない。あなたは人生の主人公である」という発想です。あなたの不幸な体験、それは見方によっては非常に悲惨な物語だが、それを未来志向に生かすことができる、という考え方です。アドラーはユダヤ人で、子どものころはユダヤ教でしたが、成人後にプロテスタントの牧師と文通をして改宗をしました。ですから、アドラー自身の中にはキリスト教的な信仰が存在します。
17 歳の少年が変わった
私は不登校支援の働きを始めた時、家庭内暴力をしていた17 歳の少年と同居していたことがあります。彼は幼いころから父親に俵(たわら)に詰められて倉庫に放置されたり、逆らうと足をつかんで頭からコンクリートの上に打ちつけられるような虐待を受けていました。彼は小学校のころから、「俺が強くなったら絶対にあの親父に復讐する」と決めていたのです。
そして、中学の時に父親をボコボコにやっつけてしまったのです。それから父親は彼を疎んじ始め、彼が高校生になった時、精神病院に送ってしまいました。彼はそこを脱走し、不登校の塾長のところに身を寄せました。そこから、私と同居することになったのです。
結局、彼とは3 年間同居しましたが、私は彼の身の上話を何度も聞きました。時には夜中の2 時まで聞きました。そうしている間に、だいたい話すことがなくなるのです。それからは私が出勤している間に、部屋をきれいに掃除してくれたり、買い物に行ってくれたりするようになりました。今度は彼の方から、「岩井さん、ちょっとバイトもしたくなってきたから、いいかな」と言い出しました。私はどんどんしなさいと勧めました。しばらくすると、今度は「定時制高校に行きたい」と言い出したのです。それはいいねと励まして、勉強も見てあげたりして、結局日比谷高校の定時制に入りました。成績ももともと良い子でしたから、勉強を見たり、生活指導をしたり、カウンセリングもしてあげると、2年少し経ったころ、青山学院大学に入学したのです。卒業後、彼は岩手県に帰りましたが、その時には親とはもう完全に関係を修復して、虐待を受けた父親と仲良く暮らすようになったのです。
「劣等感」には2種類ある
劣等感というのは、怒りや不安、焦り、恨み、嫉妬、煽謀のような陰性感情、マイナスの感情です。劣等感というのは一つの感情ではなく、いろいろな陰性感情の複合体です。
劣等感には2 種類あります。一つは対他的劣等感です。これは他者との比較から生まれる劣等感です。私は兄に劣等感を持っていました。私には兄がスーパーマンのように見えましたが、私は兄とは違うんだということを認め、成長する過程で兄とは棲み分けをして違う分野で活動しようとすることで、この思いから解放されました。
もう一つの劣等感は、対自的劣等感です。これは、自分の目標との比較から生まれる劣等感です。自分の目標と現状のギャップに直面して抱く陰性感情です。目標や理想があるから劣等感を感じるのであって、現状に満足している人には劣等感はありません。ですから、劣等感とは建設的に成長を願って、目標を持つからこそ起こる感情と言えます。
劣等性、劣等感、劣等コンプレックスの違い
アドラーは「劣等性」「劣等感」「劣等コンプレックス」の3つをこのように整理しています。
1.劣等性
劣等性とは、生活上不利に機能する客観的な属性のことです。からだの障がいや、目が見えない、耳が聞こえないなど、機能的なことです。
2.劣等感
主観的に自分の何らかの属性を劣等であると感じることです。これが一般的に「劣等感」と言われるものです。アドラーは劣等感について、「病気ではなく、むしろ健康で正常な努力と成長の刺激」と主張しています。
3.劣等コンプレックス
劣等コンプレックスとは、劣等感の過度な状態です。特に、ライフタスク(仕事・交友・愛)への対処を避ける口実として劣等性・劣等感を使います。「からだがこうだからできない」「自分はこんな風だからダメだ」というように、ライフタスクを避ける口実として使うことを劣等コンプレックスと呼びます。これは「異常な劣等感」で「ほとんど病気」。
「劣等感の過度な状態に他ならない」とアドラーは定義します。
人が劣等感を抱くことは、当たり前のことです。しかしそこから、建設的対応と非建設的対応のどちらかを選択することができます。向き合うことから逃げて、「私はできないから、みんなが私の面倒を見て」というのは非建設的な対応です。しかし時には人の協力も得て、課題を何とかしようと努力する方向に向かうなら、それは建設的対応と言えるでしょう。
ラインホールド・ニーバーの言葉は、まさにルッキズムに対する解決を提示していると思います。
神よ、私にお与えください
変えることのできないものを受け入れる平静な心を
変えることのできるものは変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵を
* ラインホールド・ニーバー 日本語訳:中村佐知©2002
また、ジョン・C・マクスウェルは『あなたがリーダーに生まれ変わるとき』の中で、このように言っています。
「われわれは自分の顔の美しさを意のままにできない、けれどその表情を意のままにできる」
実は私は障がい者です。皆さん気づかれませんが、実は左手の親指以外の4本指がありません。去年、このような病気になりました。私は指が4本なくても、他の心身機能の98% は健康そのものです。残っているものを最大限生かすしかないのです。ルッキズムの問題は、劣等感を持っているものに執着し、ないものねだりをして、あるものを生かさないことです。そうではなく、たとえ人より劣るところがあったとしても、それを補うもっともっと大きなものがあなたにはあるんです。それを生かすことを考えませんか、と私は提案したいと思います。
ルッキズムから解放されるために
部分を見るのではなく、全体を見ることが大切です。私たちは、部分を見たらいくらでも足らざる部分というのが見えてきます。ルッキズムになると、どうしても自分の容姿や外見ばかりが気になり、悪しき自分軸として悩むネタにばかり苦しむと思います。そうではなく、あなたには本当に魅力あふれるものがいくらでもあるんですよ、と伝えたいです。
「見てごらん、あなたを待ってる人がいるよ。あなたに感謝してる人がいるよ」ってことを。私は不登校の子どもたちにそれを教えました。不登校の子どもたちは、ギブアンドテイクで立ち直るのではありません。
人に貢献することを体験し、喜ばれて、そして自分は価値があるんだ、自分に感謝してくれる人がいるんだというところから立ち直っていくのです。
ニーパーが語ったように、容姿は変えることができません。変えられないものは受け入れて、心に平静を持ち、変えることできるものは変える勇気を、そして両者を見分ける知恵を持つことが大切だと思います。
私は「脱・比較3 原則」を提案しています。この3つを卒業すると、とても生きやすくなります。
1.他者の長所と自分の短所を比較しない。
だいたいの人は、他者の良いところと自分の悪いところを比較します。
かなうわけがありません。そうではなく、比較するなら、他者の良いところと自分の良いところを比較すべきです。
2.理想・目標との比較は、ほどほどに
強すぎる理想は勇気をくじくとアドラーは言っています。 ですから、適切な理想や目標を持つのはよいですが、到底無理だと思うような、解離の大きすぎる理想を掲げて比較するのはやめましょう。
3.過去の栄光は、自分の貯金。自分の勇気づけの材料
例えば、中学校のころから「お前は東大確実だ」と言われたけれど、行けなかった人がいます。しかしその人はいつまでも、自分が東大確実だと言われたことにこだわっているのです。しかし大事なのは今です。
取り戻すことができないのであれば、過去の栄光と現在の状況を比較するのやめましょう。
自分の個性とは、人に対する貢献だとアドラーは考えます。人のために役立つ自分の素養は何かということです。それは、相手との共感であり、信頼とつながった協力関係ができるかどうかが大切になってきます。
自分軸から脱出し、劣等コンプレックスから解放されるために、今一歩を踏み出しませんか。
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https://tiwai-humanguild.hatenablog.com/entry/2025/08/23/083255
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